大師役小角一代 その2

箕面山

三月十七日、摂津に行きて、箕面山みのおやまに登る。沂澗きかん流れる深山に分け入りて、三重の滝を拝見す。最上瀧は高さ二十一丈、雄滝と称す。第二瀧は岩石飛泉、玉串の如し、瓔珞ようらく瀧と称す。高さ十二丈余りなり。第三瀧は高さ十五丈余り、宛布する曝は頂上にむ滝竜の如くして、雌滝と称す。

此の滝壺の竜神は其のたけ、三じょうにして折々に黒雲を吐きて雨降らせ、稲妻光を發せり。役小角は竜神に勉めんとして、滝壺の辺りに草堂を建てて(二文字空白)誠に苦行す。

四月十七日。夜半の夢に現心うつつと想いなして、滝壺の底を探知せんと欲し渕の中に飛び込み、底部に至れり。深きは却って水きなり。一座の城郭にして鎖したる石門有り。小角は心中に何人なんぴと栖屋せいおくなるかと想いて、少時停止し、門内の動静を聞けり。幽かなる伎楽の韻来たりぬ。依りて小角は不動眞言六百遍を誦す。

時に門内に声あり「門外に於て不動眞言を唱うる者は誰ぞ。」小角答えて「我は豊秋修験宗行者にして葛城山に生まれし役小角なり。汝は何人ぞ。」又門内に声有り「我こそは仙山の精、徳善大王なり。」即ち開門あり。小角を請じて奥に伴行す。

高重の御門つらなり、樓閣・いらかひさしも聯なりて悉く七宝荘厳す。金台・珠楷・心詞も及ばず。宝地には優婆羅華うばらげ拘物頭華くもずけの咲き満ちて、芳妙馥郁ふくいくたり。琪樹きじゅには異草列生し、霊禽は和やかなる雅音を発して妙法をてん法し、幢蓋どうがいは薫風に飄々たり。

大王ここに摩尼灯を明るくなせば、七色煉光れんこうして、其の甘露・醍醐をきらめかしむ。飯食器は御殿に盛陳す。前には丈余の錫杖、正しく丈毎に立ち、余は鼓盤を懸けたり。是れ皆、刻限来たらば撃たれ、ふるわざれども微妙なる音声を発すなり。

殿中には、竜猛菩薩、結迦けっかして坐し、右には神変童子、左には金剛童子、左右十五位に囲繞いにょうす。中央なる宮殿のうちに、七宝荘厳せし床あり。其の上に竜樹菩薩、厳然と坐り給いてあり。

その時、徳善大王は佛前の香水をり、小角の頭頂にそそぎて撫で「なんじ、もとの所へ還りて、難山𡸴岨を開く可し。切る所は皆、佛場たる可し。」小角、謹しんで領掌九拝せり。

水上に現出浮上し、想う間にも愕然として夢は終わりぬ。小角は大喜びにて、その滝下の荊棘けいきょくを刈りて岩石をはらたいらとなし、一宇の草堂を建てたり。楠木を以て等身の竜樹菩薩像を刻みけり。

十月十七日に紅葉を折りきこりて、開眼供養、安置す。更に又、徳善大王・十五童子等の尊像を作りてこれを護法神と為し、堂の東西隅に小さき祠を安置す。庚申六年より辛酉十二月に至たるまで勤行をなせり。

天渟中原瀛眞人帝の戊元年一月一日。役小角は佛勅を奉じ、昼は滝上に於いて孔雀王呪を誦し、夜は滝下に於いて草堂に不動明王呪を誦せり。山花澗水を供え、三満時に閼伽あか懈怠せず、三密観行・神心流錬の苦行をす。

是の功徳に依りて、矜迦羅こんがら制多迦せいたかの二童子来りて、昼夜佛門に給し、弟子入りをなせり。又、諸山の神々も弟子入りし、小角に仕えて薪水採りをす。

小角は、通力究まるところく、能く空上を歩き、渡水踏渉し、衆生の吉凶禍福を未前に察せり。疾病者あれば呪符を与え、以て奇病難病を神通力にて全治す。時は十月十九日なり。

西国の難山𡸴岨

十一月一日。小角は諸々の難山𡸴岨を開かんと欲し、播摩國に至りて書写山に登れり。二十日、白旗山に登る。

十二月六日、美作國に至りて那岐山に入る。

癸亥二年の一月一日。更に備前国に至り、船坂山に登る。

十六日、備中国に至り神代山に登る。

二月一日、備後国の道後山に登る。

十六日、安芸国の十萬山に登る。二十一日、馬頭山に登る。

三月十七日、周防国の河山に登る。

四月一日、長門国の鳳翻山に登る。

十七日、豊前国の英彦山に登る。

五月一日、豊後国の両子山・由布岳に登る。

六月一日、萬年山に登る。十七日、久住山に登る。

七月一日、鍾乳洞に入れり。十七日、傾山に登る。

八月一日、高千穗山に登り、役小角は日の出を拝めり。

十七日、三方山・国見岳に登る。

九月一日、市房山・韓国岳に登る。

十七日、日向の高千穗峰に登り、天地祇神降臨護摩修法をなせり。

十月三日、肥後国の白髪山に登る。

十八日、京文山に登る。三十日、冠岳に登る。

十一月十七日、鞍岳・耳納山に登る。

十二月一日、肥前国にて屏風岳に登る。天竺唐国方に向かい金剛般若経を誦す。

甲子三年の一月一日、安満山に登る。十日、天山に登る。

二月一日、筑前国にて筑紫山に登る。

十八日、立花山に登る。

三月二十五日、長門国の俵山に登る。

四月十七日、石見国にて筋岳・青野山に登る。

五月一日、大差山に登る。

十七日、出雲国の三瓶山に登る。六月一日、出雲神殿を参拝。

十七日、伯耆国にて大仙に登る。

七月三日、船上山に入山す。

二十一日、因幡國の三国山に登る。

八月十日、但島国の扇山に登る。十七日、矢神山に登る。

九月一日、丹後國の大江山に登る。

十八日、丹波国の桧山に登る。

二十一日、保津川の流れを下り摂津国にかえり、箕面山に護摩修法す。この時、十月十七日なり。役小角は親母の身体を案じ、二十二日に葛城山の母の家に行けり。この時に千代君曰く「汝、心配无用むようなり。速かに衆生願救を為せ。験者に成るべし。」小角、大いに喜べり。

十一月三日。小摩以下門弟を守りて、大峰山窟にかえりぬ。門弟一同大いに喜び、永年の御无砂太ごぶさたを得たり。

智由僧の帰朝

天渟中原瀛眞人帝の乙丑三月十四日。来朝せる智由僧、大峰山に来たりぬ。唐にかえりし孔丹よりの経巻若干を伝授す。青丹即ち唐小摩これを受く。呪首経一巻・大唐西域記十二巻・顕揚聖教二十巻・大乗阿毘達磨十六巻・大乗五蘊一巻・解深密経五巻・因明入正一巻・天請問経一巻・瑜伽師地百巻・勝宗十句一巻・能断金剛般若経一巻・大乗百法明門一巻・縁起聖道経一巻・如来示教勝軍王経一巻・般若心経一巻・甚稀有経一巻・摂大乗世親十巻・摂大乗三巻・摂大乗无性十巻・最无比経一巻・菩薩戒羯磨一巻・菩薩戒本一巻・王法正一巻・大乗掌珍二巻・佛地経七巻・因明正理門一巻・称讃浄土教一巻・諸佛心陀羅尼一巻・受持七佛名号称功徳経一巻・中天竺摩訶菩提寺智光僧慧天僧書二巻・佛臨涅槃記法住経一巻等なり。

又更に悲涙せしむ文有り。麟徳甲子の如月五日に、玄奘三蔵法師は老病の為め玉華宮に於いて入寂せり。「汝、此の経どもを豊秋国に於いて弘布す可し。」小摩僧は、此の文を讀むうちに、大いに悲涙せり。小角は共に夜を通して泣き明かし、供養す。

四月十二日。唐小摩は唐にかえらんと欲しぬ。小角、それを留めて曰く「汝、何が不足にて、入唐にっとうせんと欲するや。」小摩曰く「驚くべき聖行中に相済まざれど、我師の入寂を聞き、孔丹はその後、毎夜夢に三蔵法師の現れて曰うに『汝等、我が教えを聞かず、外道教を立てて、衆生を度せず。我が身の験行を修むるのみに消去せるなり。』とぞありけれ。」

この時に小角曰く「未だ我が宗の起源を知らざる者にして、其の様な夢を観たるなり。然れども、我が修験宗は、謹しみて何事にも霊験を積み、心身に心眼・心耳・无上むじょう神力を得んとするものなり。又、滅後に輝光きこう国に昇天して娑婆しゃばと往来する大験力を得んとするものなり。」小摩、謹んで合掌せり。

丙寅の一月一日。大和国上北山の人、正眞、弟子入りす。称名は大角坊とす。

一月二日、大和国大塔の人、貞利、弟子入りし、称名は空梅坊とす。

二月一日。役小角の弟子門下、飛鳥の都にて衆生を治病し仙薬を与う。この時、紀伊国那智の人、彌彦、弟子入りし称名は法蔵坊とす。又、同日、大和国三輪の人、武安、入門し名を法明坊と称す。

一月四日、大和国橿原の人、徳公、入門し名は不壊坊と称す。同日、和泉赤坂の人、光長、入門し大日坊とす。

五日朝、又、更摂津国難波の人、国利、弟子入りし名を大力坊と称す。

六日、紀伊国九度山の人、成平、入門し名を天山坊と称す。

一月十日、伊勢國二見浦の人、守麿、入門し名を方身坊と称す。

小摩に伴なわれて一門の弟子、大峰山に佛法大要を説教す。小角は独り飛鳥の都に留まりて、衆生に薬草作用を教えたり。

丁卯六年の正月、大峰山にかえる。この時、大和国迦茂の人、長足、入門し名を薬師坊と称す。更に山城国日向の人、富吉、入門し名を保食坊と称す。

不動明王の啓示

三月十七日。時に、小角は独りで大峰山大険峻に登りぬ。峰分かれて、大天井峰の下、荒沢なる魔所にして、名もき未知なる大岩窟あり。其の中に一個の骸骨あり。五体は分散せずして、其の丈は九尺五寸余、左手に金剛独股杵を握り、右手に利剣を持ちて、仰向けに臥せり。其の髑髏の眼中より樹木生じ、二本生立す。小角は是を見て、其の剣杵を取らんと欲せるも、共に取ることを得ず。小角は甚だ怪しみて、不動明王に祈誓し、「願わくば、かの剣杵を取る事得さしめ給え。」ここに不動眞言・孔雀王呪等を誦す。日暮れてもはかるを知らず、丹誠に祈願す。その時、小角は頻りにねむきざし、その嵓倚がんきにあるをも覚えざるなり。

夢に、不動明王現れ給いて、告げて曰く「汝、かの剣杵を得んと欲さば、千手陀羅尼三十遍・般若心経等百巻を誦す可し。然れば、汝かのものを得ん。かの骸骨は、汝の前生なり。天竺より唐土に渡り、更に此の山に来たりて佛道練修するも、未だ開悟せずして、葬られ去りし遺骨なり。唐暦の永平十二年の逝去にして、摩訶星と号す尊身なり。再び火葬して金の壺に納むる可し。」

小角は、夢にかく聞きて大いに喜び、夢想の如く、千手陀羅尼・般若心経を誦しぬ。然れば、かの骸骨開きて自然に手に授かりて剣杵を得たり。是に小角、大いに喜悦し、生涯身を離さず所持せんと誓いたり。

小角は更に佛勅を奉じて、法隆寺に参じ、住僧の行喜阿闍梨より盧遮那佛金銅像・馬佛師作一体を授かれり。

七月十九日、紀伊国那智山の人、頼光、入門し名を法明坊と称す。

八月一日。役小角は、那智山に登り、一宇の権現堂を建つ。修験宗大要を謹み、唐小摩と共に開悟したり。

法隆寺の炎上

己巳の三月一日。飛鳥朝より大峰窟へ使者来たりて、鎌足の重病なるを報ず。是に於いて、役小角、都の藤原荘に参ず。諸々の仙薬祈禱を用いれども、何の効をも奏さず、鎌足はただ弱るのみ。小角は大山窟の小摩を呼びて、再び天に加持祈禱することあまたなるも、何の効をも奏さず。十月凶日、鎌足遂に入寂す。

十二月、佛法の大逆者、斑鳩寺を放火せり。全て焼滅す。この時、役小角は神佛混合・本地垂迹説を衆生に説けり。然れども、世人は是を軽笑す。

庚午の四月壬申の日の夜、更に飛鳥法隆寺にひつける者有り。

放火されし時に、小角・小摩は神通力を以て消し止めんとせり。然るに、天神大いに忿怒して大風巻きおこり、火の雨・雷震を降らして、一屋残らず炎上せしめたり。

この時、寺政の役人・寺僧は打首となり、斑鳩寺の住僧法海は大嶋に流罪。天覚は大峰山に逃走し、大天井にて小角に救われけり。聖徳太子の十七文戒書を天覚僧より受く。小角は是に、天覚を修験宗に入門せしめ名を照覚とす。

法満僧は打首。智悟僧は打首。又、法隆寺住僧の日正僧は打首。百済良海僧は打首。天海僧は、聖徳太子分舎利を奉じて逃走せり。小角、是を救いて舎利壺及び上宮太子の遺品等を拝受す。天海僧は、この時に舌を切りて入寂せり。役小角は大いに悲涙し、笠置山麓に葬りぬ。天海僧は御壽八十三年なり。

法智僧は打首。百済僧眞如僧・佛正僧等は国を追われたり。

時に其の禍は役小角にも及べり。この時、役小角は大いに怒りて曰く「我は僧に有らず、修験者なり。御用に依りて、都宮より下りし時に火災有り。我は只消さんと欲せしのみ。汝等、不審に想う勿れ。」

辛未の一月三日、大和国高市の人、広利、入門して名を天竺坊と称す。

二月、笠置山に入山し、天海阿闍梨を供養す。

四月。役小角、前鬼・後鬼・弟子一同と共に、大峰山より紀州に至り那智熊野の路を通わしめて、開踏す。

七月、氷山に登る。

九月、和田山に登る。