大師役小角一代 その1

大師・役小角仙人の一代

豊秋瑞穂國とよあきみずほのくにの北方、國末石化嶽いしかごくなる、修験宗を立法せし秋地において、役小角仙の墓前にこれを書す。

大唐國・長安弘福寺の小摩阿闍梨

物語の始まり

息長足広額帝の癸巳三月十五日のこと。大和國葛城上郡の茅原郷の人にして、俗姓は高賀茂役公氏、即ち稚日本根子彦日々帝の皇子なる彦坐命の末系にして、髙賀茂役大角と称す神楽器工ありけり。その長女に、代志よしと称する姫あり。十八の春を過ぎて、艶麗なる容貌は金谷千樹きんごくせんじゅの花にも譬え、搖池玉樓ようちぎょくろうの月とも言う可くして、毛檣もうしょう西施せいしたりとておもてずるほどなり。世人は葛城の花精と称す。常に病身の母親梨麿なしまろに孝行し、心美しき姫なり。又、神楽の舞は衆女に優れてあり。

そのきこえは、飛鳥朝の天聽に達し、宮中にて内々に御砂太ありて、代志姫を召したり。大宮に神楽の舞姫とて迎えられ、その美貌・舞い振りは、極楽天女の如くなりし。これ宮中より知られて、津々浦々に知れ渡りて、代志姫を知らざる者とてはし。

御帝は常にあらず大いに喜びて、名号を授け、すなわち千代君姫と称すなり。御前にて、御衣・飾金等を賜り、御帝の近侍姫と定まれり。帝の御寵愛を受け、玉敷たまじきの大宮御殿中に並ぶ者はなし。金台・珠楷・心詞も擬するに及ばず。謹みて領掌をなし、千代君姫、及ぶ限りの奉仕をなしけり。帝、時に大いに喜びて、ますます千代君を好み給えり。

六月十八日のこと。橿原の宮において五穀祈願の祭事行われ、千代君姫を神楽舞姫とてだしめたり。その夜の御野宴に、帝は千代君姫を召しぬ。御休室にて酌を仕らんと欲する時、帝は心いて、千代君の断りをも聞かず、床を同じうして夜を明かし給えり。

その後、日月は流れ、千代君、我身に帝の玉児を姙み宿すと知れり。大宮の女官衆はこれを不思議に想いなして、千代君姫に聞きたるに、千代君こたえて曰く「いぬる六月の中頃、夢のうちに、天空に愛染明王あいぜんみょうおう現れて、独鈷杵どっこしょを我が口中に授けたり。」夢を観て懐姙し給えるなり、と偽言申し伝わりけり。

小角誕生

あくる甲午六年の正月元日のこと。千代君は東宮に於いて、玉児を密産せり。その男子の面は美貌・異相にて、体は魁悟・並々にたがう赤児なり。一月ひとつきを過ぎて、立ちて歩むほどなり。帝は常ならず喜びて、児に衣を賜いけり。

千代君、二月ふたつきを過ぎて、親子ともに強き体となりぬ。時に、帝は皇地・皇屋を賜わんとするに、千代君これを欲せず。又、皇妃・宝皇女・皇后らのほのおの如きねたみより逃げて、飛鳥大宮御所を退しりぞき、葛城上郡茅原の我が館にかえらんとす。

御帝、大いに悲しみて、留めんと欲すれども、千代君とどまらず。帝、涙ながらに曰えり「汝は、誠に皇尊にして我が皇后なり。若き女盛りの年に因果興りて、我、今更ながら悔やみぬ。共に罪業を苦患せる不消の末々ならむ。昼夜、我、汝ら母子を案ずるなり。」その児、神器三種を授け賜わりけり。千代君、御帝に厚謝す。

慈悲の心を給わりて、郷にかえりけるに、高加茂役公、千代君母子を観察て大いに怒りぬ。「遊女の身に紛れたる淺猿者奴あさましきやつめ、汝如きが不孝不貞を為すにより、我れ世路よみちを歩かれず。汝の児種は、何人なんぴとを名乗るべきや。」千代君、ことばく涙ながらに曰えり「此の児は神童なり。」高賀茂、益々怒りて曰く「せてぬ可し。汝は我が娘には有らず、又、我が子・我が孫には有らず。」かく云い棄て、役公は飛鳥大宮を焼き討ちにせんと欲するなり。

この時に、千代君、實父の忿怒を留めぬ。母梨麿は、心に氣配余りて、入寂しけり。是に於いて、高賀茂役公氏、心なごまして「其の子、我が称の末子なる号、小角おずぬとせよ。」

月日は夢の間に過ぎて、小角、母の乳を離れたり。小角、幼年ながら自ら余の小児・余の遊戯をば好まずして、只、山林中に分け入り、獨り遊びて佛の土形を作るを喜び好む。時は辛丑八月の頃なり。

七月、千代君は三宝を發願して、无量壽むりょうじゅ経を拝誦し信行す。

八月の吉日に、母子ともに吉野山に入れり。

冬十月己丑丁酉。息長足日広額帝、百済大宮に崩御なりし時、千代君は大いに悲しみて、涙して供養し給えり。

天豊重日足姫帝の壬寅元年四月、役小角、御壽九歳を以て、百濟寺の創起祭に佛児役とて参じたり。

癸卯三月、千代君母子の金剛山に入りたる時、千代君、三種神器を欲す。飛鳥朝は奉納すれども、蘇我臣の國政専檀に依りて无礼ぶれい多く、納めずとなりぬ。其の頃、難波の百済客館及び民屋に災ありて、是焼失せり。是即ち悪政の故なり。

甲辰の祥月吉日、杵削寺の創祭に佛児役とて参じぬ。

大化乙巳三月、古人大兄皇子、共に吉野山に入り、无量壽むりょうじゅ經を誦せり。

六月、摂津國に行きて、箕面山みのおやまに入り、密乗孔雀王呪經を誦せり。

青丹、孔丹

十月一日、役小角、海神見経を欲して、難波の海岸に出でて苦行を修しいたる時、波討ち岸に舟破れて、二人の若き異國僧の漂着したる有り。小角、是に驚嘆して其の異僧を救いて、食物を授け、聖行堂に招きぬ。喜ばしくも、異僧は氣付きて、涙ながらに曰えり。

「我等は、唐國長安弘福寺の玄奘阿闍梨の門弟なり。我は孔丹と称す凡僧なり。是度これなる青丹阿闍梨と共に、師の佛勅を受け、犍陀羅げんだーら渡来の阿羅羅迦蘭仙人・喬誉摩悉達多ごーたましっだるた一光二尊像、及び无止礼摩伊於須むとれまいおすの敬拝せし金剛无名尊像むみょうそんぞう、玄奘法師作なる法相菩薩尊像等を奉じいたるなり。韓國の金剛山に納奉せんと欲すなり。我が師は今年、天竺の長路旅よりかえりて、疲れも忘れ、我等を見送り給いて曰く『汝等、東国に佛法を弘布すべし。難きことなれども、必ずかえらざる可し。汝等には諸佛の守護有らん、大役なり。』我等、悲別して舟出し東方に向いたるに、時に風興りて荒上の海に舟柱折れて、我等死せんとする時、空中に微妙なる聲有り、『汝等、韓国に行くべからず。是の舟の向かう路処ところは豊秋国なり。彼の国に金剛山有りて、佛法を修する十一歳の若行者有り。汝は必ず死せず。此の途は急なる可し。』とぞ。」

小角、是を聞きて佛の名を誦しぬ。

時に、青丹なる唐僧、佛舎利を役小角に授けて曰く「是れ、天竺の檀特仙人悉達多及び阿羅羅迦蘭の佛舎利なり。」

役小角、大いに喜びて、拝受し「我、佛陀に導かれたるなり。」誦して曰く「南无修験宗起源大祖即身成佛尊。」

小角、再び金剛山に登り、唐僧孔丹より佛法経及び大唐天竺地理経・大歴等を学ぶ。次に、青丹僧より道教・摩尼教・景教・囬教等を学ぶ。身・心に深く学びたり。時は、大化丙午二年七月なりけり。

十月十七日。役小角、神仙術を感得せり。霊験は益々、身・心・体に長じたり。雨の降る中に笠用いずとも汚れず。歩行時、常に足駄を履きて蠢虫を踏まず。水上を歩くとも沈まずして渡る。皮を編みたる法衣にして、草木葉実等を食す。

大化丁未の年の正月元日。唐僧の導師、唐にかえらんと欲す。役小角、是を留めて曰く「願わくば、今年一年和土にとどまりて、修験宗の起源大要を教え給え。」涙ながらに頼り給えり。是に、孔丹僧、よろず得ず金剛山に留まりぬ。唐紙・黒木の煙汁を以て、天竺佛陀経・大唐仏陀経等を記し、更に、豊秋仏陀三國経及び修験宗密教仙術大要等を記したり。

大化戊申四年、役小角・青丹・孔丹、共に大峰山おおみねさんに入山せり。時に、葛城山主神の前鬼ぜんき後鬼ごきなる夫婦神、共に弟子入りす。岩窟を掘りて仏殿を作り、渡来佛・経紙・佛具等を安置せり。この時、前鬼・後鬼を水汲み薪採りに奉使せしむ。是に於いて、役小角の仙術は神通自在なり。又、前鬼・後鬼も神変は自在なり。

時に、青丹僧は小摩と称して修験宗に入門す。残念ながら孔丹のみは唐にかえるを欲しぬ。小角は別離を悲しみて、舟路を以て難波に至り、更に陸路肥前平戸嶋に至れり。松浦の先勝浜より、孔丹僧を永別の見送せり。舟出でるに泣涙きゅうるいす。時は白雉庚戌元年六月なり。

六月三十日、大和にかえる。金剛山に登りて、忍変術を得たり。

再び神通力を得たる時に、佛道修行のかんに微妙なる声の聞こゆるあり。小角、是れ、期せずして法喜菩薩に拝謁したるなり。菩薩の説法を聽聞して、三昧發得ほっとくをなしたり。

白雉辛亥の一月元日、唐小摩、楠木を以て、法喜菩薩尊像一体・孔雀明王尊像等を刻みぬ。一宇の草堂を山上に建て、尊像を安置す。

十月、紀伊国の那智山に至る。火生三昧を行ぜる時、役小角、火中に生身の不動明王尊を拝せり。小角、有難き霊験に、不動眞言を誦しぬ。この時に、小角、大岩を以て、不動明王を刻して尊像とし、那智の滝辺に安置せり。

十二月二十三日、大和国の釈迦岳に入りて、修験宗の護摩修法をなす。

白雉壬子の三年一月吉日。白髪山に登り、天下安泰護摩修法す。この時、大和国天川の人、常彦、弟子入りし、号して大祥坊とす。又、大和国川上の人、時宗、弟子入りして、天法と号す。

五月十三日。山上岳に登り、役小角・唐小摩、共に苦行百十、断食を修し給えり。

九月一日。更に吉野にて金剛山に登り、法起菩薩密乗三昧経を感得せり。

白雉癸丑の六月、金剛山麓に法起菩薩堂を建つ。

大峰山

白雉甲寅の四月十二日、大峰山おおみねさんに岩窟苦行を修せり。

飛鳥朝庭に仕えたる釆女うねめ三人、尋ね来れり。年頃いずれも十八歳位の美しき女なり。その一人は淨千代姫、次なるは清水姫、その次は玉代姫なり。

三人の女曰く「妾達を御救い給え。外面は飛鳥朝大宮と言えども、彼の宮中は苦患の地獄なり。女の身を持ちたる妾達は、重臣達の床遊び道楽なるものの如し。若し其の意に順ぜざれば、寃罪にも落とされん今の身上なり。願わくば、妾の入門を御免下されたく。」

時に、唐小摩曰く「汝等、少女なり。心に金銀・珠玉・飾装を欲しがりて、虎口ここうを知らずして参入せしものか。哀れなる女心なり。女身にして、誠を守らん女は現世に少なし。早春の内に罪障を悟りしか。汝等、神佛の慈悲に依りてこそ、其の苦患より逃れられん。」小摩は小角に向かいて曰く「如何に致す可きや。」小角曰く「我等は未だ悟らざる験者なり。又、年令若く迷早なる男体なり。女体を欲すれば、千日の苦行も一時に破れん事、有らざるはし。依りて、女人の入門は固く禁ずるなり。」この時に、大祥坊曰く「夫れ、情きなり。」小角怒りて曰く「現世は常きに、何事ぞ。 男なる身は性根、女体を欲す。女なる身は性根、男を誘う体なり。これ魔障なり。」時、釆女達曰く「女人禁なれば、是非もし。仙人の力を怨まむ。」涙ながらに下山したり。その時、小角呼びて曰く「汝等、葛城山に参るべし。我が母なる千代君の尼堂を尋ね行くべし。」ここに、少女等喜びて下山せり。

六月十八日、千丈岳の主神なる一言主ひとことぬし神、母子にて尋ね来たりて、入門しけり。この神親子の面姿なるは、見苦しき片輪なり。然れども、通力は自在、十人力の神人なり。先祖は長須禰彦神の末系とぞ。

天豊財重日足姫帝の即位せし乙卯の元年十月吉日。役小角は大和の川原寺に参拝し、一切経を誦せり。

丙辰二年。役小角は藤原鎌足に召されにけり。維摩経を誦して、鎌足の病の全治をいのる。その時に、役小角は薬草を求め、老病萬年草・吐血病山仙水草・貧肉病萬壽草・眼病天川草等を得たり。

丁巳三年の四月十一日。藤原鎌足は、役小角・唐小摩等に請いて、山階陶原に、維摩経法要を修せしむ。

十月、小角大峰山にかえる。火生三昧行、荒行を修す。

戊午四年の四月。役小角は、竜虎山の道士、符老子に道教仙術法を修法せらる。十一月、遂に感得す。

乙未五年の一月十二日。大峰山を出で、金剛山に登り、護摩修法す。